保育園、幼稚園 | 人はモロイかオモロイか?

保育園、幼稚園

保育園か幼稚園かは、親が仕事を持っているかどうか、つまり親の都合が先に立つのが普通だと思う。
そして幼稚園も保育園も、通える範囲、時間、手段などの制約が大きいけれど、その中で出来る限り、子供にあった保育内容の園を選ぶだろう。
子供のための園選びって、結局は親のための園選びじゃないのだろうか?

孟母三遷ぐらいの心意気なら、文句はないのだけれど、何かにつけて「子供のために!」ってのは、ほんとはそう言いたいだけちゃうんかと、小一時間問いつめたくなってしまう。(古っ!)
素直に、親が納得できる親のための園選びだけど、結果的に子供のためになった、あるいは、子供のためになっているって言っても良いんじゃないのかな?

特に、親の方が微妙に障碍を抱えている場合、幼稚園は無理だもの。フォローしてもらえないから。
はっきり解っている障碍で、最初からフォローをお願いするのならいいのかもしれないけど、その辺は人それぞれ(そこが微妙)だったりする。

保育園は親のフォローをし、教えてくれながら、一緒に子育てをしてくれるのが有難かった。
これは、認可でも無認可でも、公立でも私立でもそうだった。
先生の転勤があるから、対応にばらつきはあるけど、子供と親の両方を育ててくれるのが保育園だった。
普通の幼稚園は、人の話を聞いたり、自分の子供時代を思い出すかぎりでは、親が一定レベルに達してないとついていけない気がする。
ちなみに小学校なんて、もうどうにもならない。やっと慣れては来たけれど、いつも何を言われるのだろうと緊張しながら保護者会に出る。

ADHDだって親になる。自分が他の人とどこが違うのか理解できていないのに、親になる。
自分と違っている子供を育てるために、親をフォローしてくれる環境が必要だと思う。理解するのでなく、見守って、手助けしてくれる人が必要だった。
それは、今になって初めて解りはじめたことなのだけど、私は仕事を持っていて、知らず知らずに保育園の先生方の手助けを受けて子育てが出来、本当に幸運だったと思う。

働いていれば保育園の助けが借りられるが、家にいたら誰にも助けてもらえない。
ただ、他の人の普通に引きずり回されて、おかしくなってしまったかもしれない。
自分がADHDかもしれないという自覚もなく、おかしいと言われ続けけて、自分を見失っていたかもしれない。
保育園の先生は、ちょっと違ったお母さんにも、赤ちゃんに必要なモノを教えてくれる。
こうしたら、子どもが喜ぶよって、教えてくれる。
出来ないことがあったら、ここまで、出来るところまでは基本を押さえて頑張ってって言ってくれた。

「昼間は私たちがしっかりと面倒を見てるんですから、安心して仕事に行ってください!」
そういって、いってらっしゃいと送りだしてもらった保育園に、とっぷりと日が暮れた頃お帰りなさいと迎えて貰う、そんな生活の時には、娘ももうちょっと落ち着いていたのにな。