人はモロイかオモロイか?
Amebaでブログを始めよう!

日常の生活に戻りながら

悲しんでいても、いなくても、日々は巡り、すぎていくので、いつの間にやら今日も、無自覚に生きる日が始まっていた。
それでも、少しだけ立ち止まって考えてみたり。

飯島夏樹さんの遺骨は、大好きだったハワイの海に散骨されるそうです。
公式blogのコメントには、葬儀に参列した方のコメントもありました。

日本とハワイの時差は19時間。(日本時間に5時間足して、日付を前の日に戻すとハワイ時間)
3月7日の昼頃なら、日本では3月8日の夕方ぐらいになるのかな。
私は、明日も無自覚に日々の生活を始めてしまうのだろうけど、その時間あたりにちょっとだけ立ち止まってみよう。

それと、中里尚雄さんという方のWEB日記で、飯島夏樹さんのお葬式の様子を知りました。
夏樹さんが笑顔であったと知りました。

泣いてもしぶとく生き続ける

飯島夏樹さんの死を知って、前回のエントリを上げたときには、泣かないでむしろ今まで生き続けいてくださった事への感謝の気持ちを、と気張っていた。
しかし、気張りすぎだったです。
夏樹さんの公式ブログのコメントを読み、トラックバックを辿っているうちに、ボロボロに泣き崩れて、昨日1日使い物にならない奴になってました。
よくよく考えてみれば、あまり泣かずに頑張ろうとしたことで、お姑さんが死んだときには知らず知らず精神のバランスを崩してしまったのに、それも忘れて私も懲りない奴です。もともとすぐに泣く奴なんだし。
涙を止めるのをあきらめて、泣きながら、今まで私の目の前から居なくなってしまった人たちのことを思いだしていた。考えてみれば、死は常に身近にあるのに、いつまでも慣れない。

食道癌で苦しんで苦しんでもがき苦しんで死んだ叔父さん。
学校のプールで夏休み中に遊んだのに、2学期には盲腸でなくなっていた小学校の下級生。
就職が決まって、新しい手帳の4月1日の欄に「入社式」とだけ書き、スキー場のゲレンデの上で心臓マヒで死んでしまった友達。
突然脳内出血で倒れて、一カ月意識不明のまま死んでしまった父さん。
老衰で、畳の上でみんなに見守られて消え入るように亡くなったお祖父ちゃん。
晩ご飯の後に、コタツでぽっくりとくも膜下出血で死んだお祖母ちゃん。
お腹の中にいたのに気が付かず、無理をしちゃって、いなくなっちゃった赤ちゃん。
「肺ガンになっちゃった」と、年賀状が来て、それから一カ月で死んでしまった、いつもの飲み屋のマスター
私の目の前で心臓と息が止まってしまったお姑さん。

思い出したらやっぱり悲しかった。
でも、それでも泣くだけ泣いたら前を向いて、悔やまないようにしたいな。
亡くなった人たちに、夏樹さんや夏樹さんの身近な人にも、悲しみじゃなくて、今生きてる大切さを貰いましたという気持ちを伝えたいから。

そう、少しばかり世間に迷惑をかけ続けて生活してるけど、それでも私は生きられるだけ生き続けたいです。私も家族も、生きていて良いんだと思い続けたいのです。

いつまでも、私の中に、誰かの中に。

その文章で、私を落ち込みから引っ張り上げてくれた人、
末期癌の元プロウインドサーファー、飯島夏樹さんが亡くなった。

TVのドキュメンタリーを夫と2人で見て、死によって残す人、残される人について語り合ったのは、ついこの間のことなのに。

生家がお寺さんである人から言われた、『「死が生を内包する」ではなく、「生は死を内包している」』という言葉の意味が、お姑さんを亡くした後、わかるようになった。

お葬式の時にお坊さんが語ってくれた事と合わせて、

「亡くなった人が生きていたときのことを、生きている人間が、良いことも悪いこともみんなゼンブ語れるようになったとき、死んだ人はまだ生きている。
その人のことを語らなくなっても、語ったことが体の中に入った人が生きていて、死んで、誰かに語られる。そうして、人はいつまでも生き続ける。 」

そんな感じに理解した。

だから、お会いしたことのない人だけれども、飯島さんの本を通じて、飯島さんの残したWEB日記を通じて、飯島さんは私の中にも生きているんだと思う。
そして、私がこうして誰かに語ることで、いつまでも生き続けるのだと思う。

夏樹さん、命の力をわけてくださって有り難うございました。

今は、悲しみより祈りを。

飯島夏樹さんの最後のコラム新潮社からの訃報
飯島夏樹公認blog

天下無敵の幸せモン

自分では平気なつもりでも、結構おかしくなっていたようで、
「誰かに話せ、もしくは書け!そして吐き出せ!!」
と忠告され、blogにあげようかとズルズル書いていたら、
涙が止まらなくなった。

「ああ、やっぱ吐き出しきって無かったんだ。」
忠告くれた人に感謝。

しかし、その文章、力作だったのに信じらんない操作ミスでパソコンから消えた。
でも、後で読み返したら、また暗くなるかもしれないから、それで良かったのかも。
電話もメールもblogもめんどくさくなっていたのが、また書き込めるようになったんだし、書いた効果はあったから。

私だって泣くし、愚痴は言うし、辛いことも苦しいこともあるんだけど、
でも、こういうときに妙に幸せを感じてしまう。
助けてくれる人があるし、前向きになれるんだし、世の中ほんとに結果オーライだよな。

恵まれた環境に生きているのかもしれない。
イヤなことはイヤだからイヤという、それがなぜか許されてきた。
だから、自分はラッキーで幸せであることに関しては、誰にも負けないと思っている。

ばあちゃん、あいかわらず危なっかしい嫁だけど
ボチボチマイペースでやってくから大丈夫だよ。
(呆けてからも、突然私や子供たちのの心配して、いろんなコトしようとするから、よく喧嘩になったよねー)

ばあちゃんの教えてくれたとおり、ちゃんと自分の遊ぶ時間は確保するから、心配しないでねー。

皆様、良いお年を。

なんとなく、落ち着いてきました。
日常が戻ってきて、それに慣れつつあります。
もう少ししたら、荷物を片付けはじめて、それが落ち着いたら、ちょっと振り返って考えてみたいです。お姑さんとの日々を。
心配して下さった方々、コメント下さった方々、ありがとうございます。
妙な話ですが、一人じゃないと思えるのが本当に心の支えになります。
身近な人間だけでなく、誰かがいてくれると思えるのは、掛け値無しで嬉しいです。
新しい年を新しい気持ちでむかえます。
来年も又、宜しく御願いいたします。

お姑さんが死んだ。

3週間前ぐらいから元気はなかったけど、寒くなるといつもそうだから、特別には気にしなかった。
前の日から全然ご飯を食べなくて、夜の10時頃に栄養剤を飲ませようとしたけど駄目で、心配でずっとそばにいた。
眠っているときも呼吸が苦しそうだなと思っていたら、呼吸が静かになって、ぐっすり眠ったのかなと思ったら、呼吸が止まってた。脈を診たら、止まってた。
バカみたいにうろたえて、ゆさぶって、ばあちゃん、ばあちゃんと何度も呼んでから、一緒におばあちゃんの様子を見ていた娘に、おばあちゃん、息が止まったって言ってパパ呼んでこいと言った。
パパが来たら、どうしたんだというかと思ったら、救急車を呼ばなきゃと思いついて、やっと119した。
慌てて、心肺停止なのに呼吸停止といってしまった。
救急車が来るまで、心肺蘇生。心臓マッサージ16回ごとに息を2回、ときどき呼吸か鼓動が戻ったかを確認。
全然駄目で、おばあちゃんから吹き戻ってくる息の匂いが、たった15分の間に死体の匂いに変わっていった。
救急車の前に、消防のレスキューが来て心肺蘇生を本格的に始めてくれたけど、だめだろうと思った。
思ったけど、なんとかしてくれないかと願っていた。
でも駄目だった。
病院行ったけど、駄目だった。
家で死んじゃったから、救急でかかりつけ以外のお医者さんに行ったから、警察の検視が必要だった。
救急、病院、警察と、同じ事を何度も聞かれて、自分でも何言ってんだかわからなくなった。
警察に遺体を移される段階で、ギブアップしてパパにバトンタッチ。警察の人が両方一緒に話しでもいいとか言うけど、小さい子供がいるのに深夜に両親出かけるなんてとんでも無い。介護老人のいる家庭に、幼児がいないと思うのが普通なのか?勘弁してもらって、家で泣き寝入り。
もう、疲れた。
ばあちゃんに、食べさせてあげたかった物がつぎつぎ浮かぶ。
ばあちゃんが、しっかり者でやさしくて何でも出来た頃ばかり思い出される。
寝る。寝たら元気になる。

田植え

小学校の帰り道は、田圃の中を通っていた。
ある日、田植えをしていた。
そのころはまだ機械は珍しくて、玉の付いた長い紐を田んぼの端から端まで伸ばして、人が並んで植えていた。
何もない田んぼで人の手がリズミカルに動いて苗を植えていき、すぐに紐が動かされて次の列にかかる、そして田んぼが苗で埋まっていくのが楽しかったんだと思う。
ずっと、ずっと、一人で見ていた。最後まで見たかったけど、心配した母親が学校まで探しに来て、途中で私を見つけて連れて帰った。
3時間ぐらい畦で立ったまま見ていたらしい。
足が疲れてしまっていたので、割に素直に帰った気がする。
次の日の朝、隣の田んぼまで苗は植わっていて、もう田植えはそこでは見られなかった。
それからも、田植えがあるとそこで立ち止まってしまうので、田植え見るの禁止を言い渡された。
でも、だんだん田植機が増えて、大好きな風景が無くなったから田植えに引っかかって行方不明になることはなくなった。

45分間の授業はおろか、朝の会の10分間でもじっと座ってられないし、朝礼なんて、先生の話を聞かずに足でお絵かきをしていないと収まらなかった自分が、なんで3時間も突っ立って田植えに見入っていたのかと、今でも母親に笑われる。

でも、なんでか、好きだったんだなー。

お姑さんのC型肝炎

肝炎が分かったとき、輸血の覚えもないと言っていた。
ただ、20年以上前に、大怪我したことはあるそうだ。
お医者さんは、輸血していないのにC型肝炎になるなんてあり得ないって言ってたけど、フィブリノゲンかもね。
今、おばあちゃんはすっかり呆けちゃってるから、当時品川のどこの病院に運び込まれたかなんて、もう判らない。
謎のまんま、終わるんだろうな。
胆石は軽くて済んだけど、このあと肝硬変と肝癌の心配は続く。
おしり、ただれちゃって血の出てるところもあるから、おばあちゃんのお世話はもう、子供たちにはまかせられない。
血液からは、感染する可能性があるのだもの。
もう、15年も一緒に暮らしていて、家族は滅多なことではうつらない病気だって知ってるけど、徘徊と肝炎で、施設に入るのは難しかった。
寝たきりになったら、肝炎でも入りやすくなるんだろうか。
病院は3ヶ月間でも高いから、近くの特養に入れたらと思うけど、遠くじゃないと受け入れ先がない。
会いに行けないような遠くに行っちゃったら、面倒で誰もお見舞いにいけなくなっちゃうのが恐いよ。

悪循環のまっただ中。

妹娘は、ぼちぼち学校に行き始めた。
行くきっかけ、給食の時に使うテーブルクロス。
休み始めた週、テーブルクロスの洗濯当番だったから、班の他の人が順番にずれて当番になる。

で、このまま休み続けたら冬休みになるときに家に届けられて、2学期最後の当番になるかもしれないと思ったら、それが心配で学校に行きたくなったらしい。
うーん、お前らしいけど、相変わらず思考回路が独特だ。
学校の先生に、「行く気になったらいけるので、プレッシャーをかけないで欲しい。」と伝えたら、姉娘に対する「妹はどうした?大丈夫か?」攻撃は減ったらしく、姉ちゃんは元気いっぱいだ。

中学生に構っているうちに、小学生組が疲れてきたらしく、クラスの男子全員敵に回しても学校を休まなかった娘が、学校を休みたいと言い始めた。姉ちゃん達が不調だと、一番早起きの君は、家事負担がきついんだよなぁ。そうすると、仲良しの弟も一緒に学校を休むと言い始める。
行くの行かないのと家で話しているうちに、めんどくさくて止めてしまった電話がアダになって、携帯にガンガン小学校から「まだ学校に来てませんが、連絡はどうなってます?」と連絡が入る。
別に、休みますと電話かければ良いんだけど、なぜかそれで私が落ち込んでくる。

それでも会社に行かなきゃ、と家を飛び出すと、おばあちゃんのおしめを買えるのを丸一日忘れていて、お尻がひどいことになってしまった。いたーいいたーいと、起きてる間ずっと、おばあちゃんは泣いてる。
もう、ほとんど歩けなくなってきたから、家での介護は無理かもしれない。おばあちゃんが死んじゃう。
ケアマネージャーさんやヘルパーさんやデイケアへの連絡、病院の支払、娘の受験、会社の仕事、そんなこんなで頭いっぱい。

どこから手を付けたらいいのか、どうすればいいのか、必死なときにかけられる一言、
「がんばってね、おかあさん」
「大変だけど、無理しないでね、おかあさん」

いやだっ!!!!!!!!!!!!!!
って言い返さないのが精一杯だ。

それを聞いたときの怒りも脱力感も、ワラって、黙って、やり過ごすしかない。

私の人間が出来てないのは分かってる。
でもやっぱり、「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないでそう思ってしまう。


保育園児が、今日も寒い中
「保育園、しゅきだから絶対いく~!」と元気にしているのがちょっと嬉しい。
これでお前の喘息の発作が起きたら、もうお手上げだよね。
もう、たくさん。

今のまんまでイイや。

末期癌の元プロウインドサーファー、飯島夏樹さんの日記コラム
「今日も生かされてます」

そこの2004年8月25日、『健康だけが幸せの源?』から。

-------------------------

自分の人生で意味があるために神が与えてくれた病という弱さ。
その弱さを一概に越えなければいけない壁として、なぜステレオタイプに闘わなければいけないのだろうか?


-------------------------

12月3日まで、日記は更新されていた。

何も考えずにズルズル生きるより、今のまんまで自分でいいじゃん。
普通になるよりも、普通じゃないからこそできる、人との違いの尊重。
自分は今までどおり、それを大事にする。
それでいいや。

『天国で君に会えたら』は、子供たちには読ませるにはまだかな?